ウクレレを弾きながら先頭をさっさと歩く良太さんの背中は、本当はもっと大きく見えた。
この時のピンク色の空も、本当はもっと神々しくてきれいだった。

でも多分これが私の、今の、本当の写真なのだと思う。

その大きな背中はものすごく遠くに見えるし、
きれいな空を、きれいなまま、まるごと撮りきることはできない。

―――


この日、写真について、いろいろな話を聞くことができた。

「まあ、それでも、フツーのガクセイな私には縁のない話さ、」
と言い聞かせておきながら、
数日間もやもやさせられっぱなしで、
バイト中、携帯のメモに思ったことを書き留めまくった。

やっぱ私はこう思うんだけどなあ、
どうしてそんなことをする必要があるのだろうか、
なんでそんな寂しいことを言うのか、
大人の子供の違いなのか?
写真家とパンピーの違いなのか?
友達と仲間の違いなのか?
と、悶々としたけれど、



現像から帰ってきた写真を見ながら、
あーこうゆうことなのかな…
と思った。



でもその現実もまた、ひとまわりふたまわり、して
結局は自分の最初の軸に戻った。




私の撮りたい理由だとか、
写真に対する気持ちというのは、
多分、自分の周りにいる人とはだいぶ違う気がする。

でも、一番、誰もが持ってる、基本的な気持ち。
多くの人が感じる、大切にしたいと思っている気持ちだと思う。



どんなに素敵な人に揺さぶられても、
最終的にはこの気持ちに戻ってくる。
絶対ぶらすつもりはないし、
ぶれることもないだろう、と思う。

少なくとも自分の周りに張り巡らされた腐れ縁が残っている限り、
絶対このやり方は変えられない。



ただ、だからこそ、私には
何かを作りこむこととか、わかりやすい基準を設定して、それに見合うものを義務的に撮ったり、
そうゆう、「責任」とか「圧力」みたいなものが必要なのかもしれない。

コンクールは上へ、上へ、全国大会のステージを目指し、高い評価を得るため、
ただそれだけだと思っていたけれど、
本当は、その「責任」や「圧力」、
「評価されること」「課題を与えられること」「責任を全うすること」を通じて
何か、もっと大切なものを得るために参加するものだった、と、
思いだした。

実際そうゆうものが魅力的でやっていたのが吹奏楽だった。
けれど、
そうして、そうゆうものを見失って、音がでなくなって、やめてしまったのも吹奏楽だった。


同じ結末にはしたくないけれど、
多分私の音楽と写真には決定的な違いが一つある。
その違いがある限り、
どんなに最悪なことがあったとしても、
同じ結果にはならないような気もする。


だったら、何かを作り込むことをやめる必要はない気がしてきた。
むしろやめてはならない気がしてきた。


―――

次、同じようなピンク色の空に出会えたら、まるごと、フィルムにうつしてあげたい。
颯爽と、前へ前へと進んでゆく背中も、もっと近くに寄って大きくうつしたい。

そうゆうことのために
責任を負って作ることを続ける。
そこから身に付くものが、きっとその願いをかなえてくれると思う。